プロ選手時代【スタッフ 小野寺】
高校を卒業し、TREKジャパンのスポンサーを受けることが決まった僕は、チームの先輩・野口忍さんやチームマッサーのビンセント・フラナガンさんが住む京都に単身引っ越してきました。

この写真は三瓶山の物です。プロ一年目、とにかく行けるところまで先頭に着いていく事を意識し走っていました。世界選手権で感じていたスピードに対応するため、年齢の関係ないJシリーズのシリーズ戦は全日本選手権とは違い、無差別になるので意識は世界を見て、とにかく早く日本のエリートクラスで優勝しようと走っていました。

2回目の世界選手権がフランスでした。
前年のポイントがあったため3列目ぐらいで呼ばれ、強豪に囲まれていました。ふと周りを見ると、そこには僕以上に緊張している顔が見え、「なーんだ、同じじゃん」と気づき、落ち着いてスタートを切れました。
結果は25位(大健闘と雑誌に載りました)。当時は40~80位が大体の代表選手の成績でした

冬は関西シクロクロスに参戦したりもしていました。表彰台の1位は三船さん2位僕で3位白石さんです。何度か優勝しましたが、昔はチューブドの機材で走っていたので、借り物の竹ノ内君のチューブラータイヤには驚きました。今はチューブレスタイヤがあるので、間違いなく僕はチューブレスタイヤにすると思います。

プロ2年目の時、先輩の野口さんとワンツーフィニッシュ!ジャージのジッパーを閉めましょうと後で社長に言われました(笑)
アジア選手権ではいろいろ毎回面白いことがありました。1周約4kmほどあるコースには所々係員の人が立っています、そのコースマーシャルの人が軍隊の人で、ライフル銃と銃弾体に巻き付け立っているいるのにビビったこともありました。空港から僕らをホテルまでアテンドするのに白バイが暴走したり、僕らを会場まで送迎するバスはも暴走してました。



翌年20歳の時にからSUBARU GARY FISHER TEAM に移籍することになりました。
GARY FISHERと言うブランドは、MTBの生みの親と言われるGARY FISHER自身の名前をブランド名にしています。 その本国アメリカのチームと契約することになりました。

このチームは多国籍でもあったので、この写真はそのアメリカ人以外の選手での写真です。
向かって左のイケメンはイギリス人で今、GCNの本国の方でよく動画に出てきます、見てみてください(笑)
小学生の時にバスケでアメリカにと思っていたら、MTBでアメリカに。


この20歳のシーズンで初優勝!前日のTTも優勝しました。




この時のSea Otter では世界チャンピオンの隣に並ぶ。

SUBARU GARY FISHER TEAMに入ったからは毎年春にSea Otter Clasicと言うアメリカで一番大きなイベントレースが行われます。場所はカリフォルニアのラグナセカと言うサーキットコースです。MTB(XC/DH/4x)・ロードレースやダートジャンプ、とにかくお祭りです。昔から世界チャンピオンや世界のトップライダーが来るレースなので、注目度も大きいものでした。



ここのレースは普段のXC(クロスカントリー)競技よりコースが長く、長い分2周でゴールと言うのもならではです。そしてShort Trackと言ういまでは正式種目になっているものも昔からアメリカでは開催されていました。
Sea OtterではXC11位とShortTrack9位が最高順位だったと思います。ShortTrackは50人ぐらいが1周数分のコースに一斉にスタートするので、スタート位置が後ろだとすぐにトップに追いつかれてしまう激しいレースでした。

今では考えられない細いタイヤをはかせていますね、アメリカと日本では相性のいいタイヤが少し違うなと思ったり。


上の写真は29インチバイクが世界で初めて優勝した時の写真です。
29インチバイクを世の中で初めて作った、これまたGARY FISHER氏、本国のアメリカチーム員が優勝する前に僕がしちゃいました。

MTBはもちろんレースだけじゃないです!!このようにどこまで上れるかみたいなことも楽しいです。
ここはテキサス州?スリックロックと言う所で、岩がやすりの様にザラザラで、めちゃくちゃグリップするので凄い斜度でも上れてしまうのです。


22歳のU-23クラス最後の年、ワールドカップ23位(昔はJシリーズ同様年齢制限なし、エリートも混相)、世界選手権25位(U-23クラス)ここで、一つの区切りとして、世界のトップライダーを目指すうえで、ジュニアクラスの時の最高順位25位を下回ったら選手辞めるべきと思っていたら、ギリギリの25位でした(笑)
ジュニアの時は速くてもU-23クラスに上がるといまいち成績が上がらなくなる選手も多いです。自分の年齢とともに変化する心境や環境でそうなるのかなと思ったり。
当時の29インチバイクはフロントのサスペンションが80mmでした。それでもー30°のステムを付けないとポジションが出なくて困っていました。
そして翌年には100mmにトラベル量が増え、ハンドルを下げれなくなると、バーエンド付けてみたりといろいろポジションの沼にハマって行きました。
その背景には、ロードで調子よく走れていた事も関係していました。

SUBARU GARY FISHERで走っているころ、ロードではTREK マルコポーロと言うチームで走っていました。
初めて出た実業団レースでは5位でした。
ツールド・熊野では山岳賞を獲得。

↑ 千枚田の山岳ポイント目前と言う所でアタック瞬間です↑田代さんや増田さん辻浦さん↑

鈴鹿サーキットも走りましたね。

ツールド・ランカウィは5日間か7日間のステージレースでした。 マレーシアで毎年行われています、アジアのコンチネンタルチームは必ず出ているのではと思います。

このチームもいろんな国の選手がいました、中国、マレーシア、ロシアでしたかね、イギリスの人もいたと思います。アームストロングの居たチームに所属していたことのある中国の選手もいまいたし。
昨年私がメカニックとして同行したアジア選手権では、この時に同じチームだった選手が中国チーム監督になっていました。
この時のロードの感覚をMTBで再現したいなと思うも、ハンドル位置が気になりすぎて、29インチから離れるしかないと、移籍した先がSPECIALIZEDジャパンでした。

家庭を持ったこともあり、ずるずると成績の出せないまま走ることは選択肢になかったので、26インチで再トライします。

結果はバチっとポジションをはめてからJシリーズ4連勝でシリーズチャンピオンにもなりました。


そしてまた、世界選手権に出場。



今思えば最初と最後の世界戦はスイスでした。
このレースはエリート(年齢23歳以上)クラス、69位だったかなぁ、リアタイヤパンクさせてしまい、80%ルールで降ろされました。20~30番台のグループがみえる所まで追い上げましたが、力及ばず・・・
スイスに入る前にワールドカップも2戦とUCIクラス1のレースに出場したので、すごいお金が飛んでいきました・・・


いい思い出です。
そして、SPECIALIZEDから26インチラインナップが消え、次は27.5インチのあるMERIDAジャパンへ。

ここでは、29インチも乗ったりしましたが、この年は最終的に27.5インチで4勝ぐらいしたと思います。


MIYATA-MERIDA BIKING TEAMでは、アメリカのレースにも参戦させていただいたりと大変お世話になりました。
絶好調ともいかず、筋トレの最中に腰を痛め、椎間板ヘルニア、CTを撮ると骨と骨の間は真っ黒でした・・・
最後にお世話になったチームはドゥロワーザレーシング。メリダの時からお世話になっていた監督が独立した際に移籍しました。


年齢的には31歳ぐらいです、2年ほど頑張りましたが、表彰台に乗るのがやっとでした。年齢的にも、最後のオリンピックも可能性が閉ざされたタイミングで選手を引退しました。
昔からの夢がオリンピック!!ではないものの、選考会は2位とか3位で惜しかったねっ!って感じです。応援してくれる皆さんにはここが本当に申し訳ないと思っています。全日本選手権もしかり、まぁ当時絶対王者がいたので山本幸平君。僕がレースにハマったきっかけをくれた人です。ただ速く走りたくて世界に通用するような選手になりたくて、そんな気持ちで故郷の北海道から出てきた道産子が、これまでのMTB界で一番世界のトップライダーに近づく事ができんじゃないかとたと思います。もちろん先輩ライダーの作った轍を進みながら。

最後はチームで年間総合ランキング1位。そして、夢見る子に後を託しました。












